大学院卒業後に、青年海外協力隊の「野菜栽培」隊員としてパナマへ!(宮﨑大輔さん)
|土地を耕し、農業用の畑を作っている様子。
■村で待ち受けていた「語学よりも厚い壁」。
–そのスペイン語レベルで村に行くじゃないですか。仕事や村人とのコミュニケーションは大丈夫だったのですか?
いや、すごい大変でした(汗)。
でも、最初はスペイン語以前の問題で、みんな僕の事を見たら「変な外国人きたぞー」みたいな感じで走って逃げるんですよ。。
–でも、仕事で行ってるわけじゃないですか。村人は宮﨑さんが来る事を事前にわかってなかったのですか?
村の奇麗な川。
基本的にはみんな「僕が何をしに来たか」は理解していませんでした。
町で働いているプロジェクトメンバーだけが知っている状態です。
というのも、田舎の閉鎖的な所ですし、教育水準もあまり高くない環境でしたので。みんな、この世には「パナマ人」と「アメリカ人」と「中国人」しかいなくて、地球も平らだと思っていますし。
そういうわけで、僕は中国人でした(笑)。
–「日本人」という概念がなかったのですね。。
はい、そんな感じでしたので語学力の他にも、そもそも「相手にしてもらえる環境」になるまでが難しくて大変でした。。
「コミュニケーションの壁」と言いますか。結局、本当に村人と話ができるようになるまでに一年くらいかかってしまいました。
■宮﨑さんを救ってくれたキーパーソン。
宮崎さんの活動をサポートしてくれたコンタクトファーマー。
–1年も!「言葉をだんだん覚えてなんとかした」という感じですかね?
言葉をだんだん覚えたという事もあったのですが、閉鎖的な村でも「コンタクトファーマー」と呼ばれる外部とのパイプ役はいたんですよ。
こんな状況でも仕事ができたのは、このコンタクトファーマーのおかげでした。
–なるほど!そういうキーパーソンがいるのですね!
中国人だと思われている状況を打開するために、日本の事についてプレゼンをしている時の様子。
はい。最初に村に連れて行ってもらった時に、派遣先の事務所の職員の方が紹介してくれました。「この村の事はこの人に聞けば大丈夫だから。」という感じで。
その人に話をすると、グループの代表とかも教えてくれたりするのですごく助かりました。そして、何回も村を訪問したり、村人にあいさつ周りをしてなんとか道が開けてきた感じです。
–まさに救世主ですね!
活動先の村の少女たちからおもちゃにされている様子。
はい、そうかもしれません(笑)。
あと、僕がやったのが「泊まり込んでおじさんたちと生活を共にして仲良くなる」という方法でした。
–「泊めてください!」という感じですか?
はい。そんな感じです。
最初はコンタクトファーマーの家に泊めてもらっていたのですが、だんだん慣れてきたら他の人に「来週から泊まりたいんだけど、誰か泊めてくれない?」とお願いしてだんだん広がっていきました。
住んでいた所から村まで歩いて往復10時間くらいかかっていたので、泊まる所が必要だったんです。
–往復10時間!?
村への道のり。
はい。一応、車で送ってもらえたりはするのですが、「故障」や「自分で運転ができない」のような融通が効かない事情があって。
なので、途中から「1週間(住んでいる所の近くの)事務所で作業、1週間は村に泊まり込み。」という生活に切り替えたんです。「月曜に行って、金曜に帰る」という感じです。
–さすが、途上国の田舎ですね。。。村に歩いていくようになった頃には、もうスペイン語はできるようになっていたのですか?
はい、その頃にはスペイン語で、会話したり、資料を作れるようにはなっていました。なんせ、みんなスペイン語しか話せない環境ですので必死でした。
結構わかりやすい例えがあって。外国語大学のスペイン語学科の先生いわく、現地に派遣されて半年くらい経つと、だいたい外国語大学のスペイン語学科を出た人と同じくらいのスペイン語レベルになるそうです。
–という事は日本での2ヶ月の訓練所生活と合わせて8ヶ月でスペイン語学科に4年通ったレベル?
はい、そういう事になります。僕の習得スピードもそのような感じでした。
■野菜作りは「言葉」ではなく「目」で伝える!
メインで指導していた学校菜園のツルムラサキと空芯菜。
–スペイン語ができない間も仕事はしていたわけですよね?そんな状態で農業なんて教えられたのですか?
確かにスペイン語はあまりできない状態だったのですが、農業は少し話が違うんです。こちらが作った野菜を見せればいいので、あまり言葉がいらないんですよ。
「あなたたちのやり方で育てたトマトがこれで、私のやり方で育てたトマトがこれです。」
という感じで。
–「なんで、お前のトマトはこんなにでかいんだ!?」というリアクションが?
学校菜園でキュウリに追肥(ついひ)する村人。
はい、そういうリアクションをもらえたり、僕自身も「どうだ、こっちの方がでかいだろ!」とアピールしたりしました。
他にもキャベツやピーマンなど、とにかく目で見てわかるように伝えました。
■電気のない村にケータイ電話?パチンコや投げ縄で狩りに出る原始生活。
放し飼いの豚を投げ縄で捕獲しようとしている様子。
–協力隊の2年を通して、どのような事が一番印象的でしたか?
やはり、僕は村での生活でした。これが日本では想像もできないくらい超原始的ですごくおもしろかったんですよ!
–原始的というとどんな風に?
電気や水道もないどころか、馬にも乗るし投げ縄でブタとか捕まえたりとか。もう本当に「博物館で紹介されているような昔の生活」なんですよ。
でも、なぜか村人はみんなガラケーみたいなやつなんですけど、ケータイは持ってました(笑)。
–でも、電気ないんですよね。どうやって充電するのですか!?
携帯電話を乾電池で充電。
それが、結構危ないんですけど、すごい方法でやってました(汗)。。
乾電池を直列コードでつないで携帯につけるという方法で充電器を自力で開発してました。
–想像しづらいですけど、なんとかなるものなのですね。。ちょっと細かい話も聞かせてください。水道がない中でシャワーはどうされていたのですか?
川の水です。
–布団は?
活動していた村で子どもと遊んでいる時。
寝袋を持って行きました。
–食糧は自宅から持って行くのですか?
少しは持って行きましたけど、できるだけ村で食糧を売っている人から分けてもらうようにしていました。食糧を持って行くと重たいので。
でも、村人が分けてくれる事もあったりしましたよ。
–村人は何を食べるのですか?
パナマの雑炊。
基本は、「イモと米とバナナ」です。バナナは「普通のもの」と「調理用のもの」がありました。イモと調理用バナナはゆでて、米は炊いて、バナナはそのまま食べます。
原始的とは言え、調理はするので米を炊く鍋はありました。あっ、あと、アルマジロをパチンコで捕まえて、それを焼いたものが晩ご飯になるとかもありましたよ。
–アルマジロ。。。
村で見つけたアルマジロの甲羅。
アルマジロは結構ご馳走で、焼いてスープにしたりして食べます。ご馳走なので、僕は食べる機会はなかったのですが。
–火をおこすのはやはり・・・・
村のキッチン。
いえ、そこはおそらく予想と違って「マッチ」です。木の棒をぐるぐる回して的なものではありませんでした。
ちなみに、プラスチックに火をつけて長持ちさせるとか、結構日本だとありえない事したりもするんですよ(汗)。
–日本ならダイオキシンが問題になりそうですね。。一緒に育てた野菜は食べないのですか?
野菜は本当に食べないんですよ。そもそも野菜を食べる文化がパナマにはないらしくて。
都会の富裕層は食の欧米化が進んでいるので、サラダを食べたりするのですが、田舎は特に食べないんですよ。
–なんで食べないんですかねぇ?嫌いなのですか?
調理中の様子。
みんな、そもそも野菜を食べ物とは思っていないんですよ。キャベツのような葉っぱものは「芋虫が食べるもの」というイメージさえついてしまってました。
そして、親が食べないので子どもも食べません。イモに近いニンジンはなんとか食べたりするんですけど。
–でも、宮﨑さんは、野菜栽培を教えにいったわけですよね?
ツルムラサキとトマト入りオムレツ。
はい、ですので、まずはお母さんたちにお料理教室をしたりなどして、「食べ方」から教えました。
トマトを入れた野菜のオムレツとか。
–なるほど!話を聞く限り、楽しそうに聞こえてしまうのですが、その状況がつらかったりはしませんでしたか?
部屋に明かりがないので家の外で勉強する村の子ども。
確かに、途中で「きつい」と感じる事はありました。なんせ、家から村に行くのに歩いて5時間もかかるので。生活に慣れるまでは肉体的に厳しい時もありました。
でも、僕はそういうのを求めて協力隊に応募したので、「きつい」とは思っても「つらい」と思う事はあまりなかったです。
■「彼ら全員が僕らみたいな生活をする必要はないと感じるんですよ。」宮﨑さんが国際協力の現場で感じた事。
ホストファミリーとのお別れ会。
–きつかったけど、楽しかった?
はい、僕はすごい楽しかったです!
今までの話だと楽しそうにも伝わると思うのですが、村の事などを日本の友人に伝えると「(村人が)かわいそう」とか思われてしまう事が多いんですよね。
–宮﨑さん自身はどう感じました?
率直に感じたのは「みんな、すごく幸せそう」という事でした。
子どもは「キャッキャ」言いながら遊んでますし、大人たちも自給自足で暮らしながら、自作のお酒を楽しく飲んで、自前のハンモックにゆられて楽しそうにしてますし。
–日本人が話を聞いて「かわいそう」と感じる側面はどのような所からなのでしょうか?
保健省と協力して村の学校で歯ブラシを配った時の様子。
彼らが抱える「問題」にフォーカスされてしまうのが大きいと思います。例えば、水がすごく汚いので、それで子どもがお腹を下したり、ひどい時は免疫力が弱って亡くなってしまったり。
後は「教育」もがんばっても中学校までで、高校に行ける人がほとんどいなかったり。僕の担当の村では、高校進学者が年に一人くらいで、大学は歴史上ゼロでした。
–確かにそういう話を聞くと改善と言うか、なんとかしてあげたいとは感じるかもしれません。
川で遊ぶ村の子どもと宮崎さん。
はい。ただ、だからと言って、彼ら全員が僕らみたいな生活をする必要はないと感じるんですよ。
国際協力や開発の分野は、「どれだけ所得が上がったか?」とか、「どれだけ村人の生活がより近代化されたか?」などのように、「彼らの生活を僕らみたいなものにしてあげる。」のような側面が強い気がしていて。
それについてはパナマ時代や今もかなり考えさせられます。
–現場にいたからこそ感じられる事ですね。
そうかもしれません。でも、やはり「不衛生な環境や栄養失調で(子ども)なくなってしまうよりは、生きていてほしい」と感じます。
なので、最近の自分の活動のテーマにあるのが「彼らの生活をある程度守った上で、衛生の部分はもうちょっと良くしよう」というものです。
もちろん、村人の中には「もうちょっとよい生活をしたい」「生活に変化をもたせたい」と言う人もいるので、そういう人には野菜販売のやり方を教えたりなどしていました。
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